すみませんと言うべきか何と言うべきか、2014年以降の京都日記がどうやらないようです。

　2012年の7月、二十歳になった僕は大阪の「いりさわ心と体のクリニック」という所に行きました。
　そこで発達障害と言われ、僕はショックを受けました。

　僕は自分に自信がありました。
　特に人の心の弱さや苦しさ、感情に対する敏感さ、優しさなんかが僕の「才能」だと思っていたところはあります。
　漫画家に憧れて、せめて有名雑誌に載る程度のレベルにはなりたいと思っていましたから、脳に欠陥があるというのは随分ショックでした。
　作家は無理だと言われたようなものです。

　そして、アテにしていた性転換も、同意書を書いてもらえませんでした。

　まあこの辺の感情は京都日記にも書いたと思いますが。

　それと同時に、無理が祟って体調不良が起こり始めました。
　パニック発作、心臓神経症、自律神経失調症、腰痛、手足の震え、不眠、生理痛、吐き気、目まい、失神、発疹、脳のまとまらなさ。
　「男になって漫画家になって生計を立てる」という、長年の夢が崩れてしまい、そのうえ体もボロボロになって、僕は立ち直れなくなってしまいました。

　だから少しずつ、映画を観たりしていたのは減っているのは事実です。
　それでも週に最低一本は必ず観ていたし、美術館や博物館は足しげく通い続けていました。観光も継続していました。銀閣寺でアルバイトをしたり、スターバックスで閉店までネームを切ったり、そんなことはちゃんとしていましたし、日記には創作がたくさん書いてあったでしょうし、何より、あの頃の生の「絶望」や「体調不良」の文章が見当たらないのは、非常に惜しく感じます。パニック発作というのは、生死を彷徨う脳の病気です。今、僕が何を書こうと、それは「過去、こうだった」という記憶に過ぎない。それはもしかしたら誇張かも知れないし、記憶違いということもある。特に本屋に入るのは苦痛で、新しくデビューしたり売れている本を目の当たりにするのは、胃が壊れるくらいしんどかった。京都の人の僕への風当たりも強かった。いつもしかめ面をされていた。何もかも上手くいかなくて、世の中全員敵だったし、それは現実、実際にそうかも知れないけれど、とにかく孤独で、絶望で、憎しみで、恨みで、無力感で、悲しみで、苦しみで、嫉妬で、復讐心で、いっぱいで、毎晩、毎晩、眠ることを忘れた脳と、悪夢ばかりの夢と、ふるえの止まらない手とともに、とにかく泣き続けてた。不安で、部屋に入ることも出来ず、玄関でうずくまって一晩泣いて、気を失っては、すぐに悪夢で目覚めていたこともある。すこしでも、外の近くにいたくて。
　そんな頃の、生の声が見当たらない。どこに行ったかは覚えてる。いりさわ心と体のクリニックのジェンダー外来の医師、織田 裕行氏の所属する関西医科大学に郵送した覚えがある。京都伊勢丹の上にある郵便局から出したことも覚えてる。どうしても手術を受けたくて、思いが通じればと思って送ったのだ。発達障害で、境界性人格障害のある僕は、そういう方法しか浮かばなかった。きっと読んでもらえる、そうすれば分かってもらえると思っていた。その頃の僕は自分を発達障害と言うより、「トランスジェンダーのせいで人間恐怖症になっただけ」だと思っていた。人と話すのを避けているうちに、人との話し方を忘れただけだと思っていた。だから、男になれば全部スッカリ治るもので、男にさえなってしまえば全てが良くなると思っていた。しかし、今考えれば当然なのだが、関西医科大学は受け取りを拒否する。やはり、当時は頭も回っていなかったのだろう。そして、「宅急便が怖い」という感情。人が来ても、出ることができなかった。そのせいで新聞の取り立ても随分大変な思いをさせた。「女だから、不用心にドアは開けられない。男になれば開けられるのに」という不安で、人が来てもまったく開けられない。だから、返送を受け取れなかった。だからきっと、日記はもうこの世にはないだろう。色々な絶望や、苦しみ、そのなかでの、慰め、その時僕は初めて、自分を慰めるという行為(性的な意味ではなく)をした。それまでは、自分で自分を蔑み、叱咤し、下を一切見ずに、とにかく努力することしかできなかったが、挫折した僕にはもう、努力する意味を見つけることができなかった。それはいわゆる「闇落ち」というやつだろう。自分を正当化し、過去ばかり振り返るようになってしまった。そんな心情変化が残されているはずなのだが、それがなくなったのは惜しいと感じる。もちろん、同志社大学の講義もその辺りだし、AIENのネタだって、ミステリのネタだって、DRIVE!!のネタだって当然ふんだんに書き込んでいたはずだ。とにかく僕はほとんどの時間日記帳と向き合っていたのだから。

　しかし逆に言えば、そういった行為はすべて「復讐」なのだろう、とは感じる。
　漫画家を目指していたのは、慧彗さんとの「約束」があったから。
　小学六年生の時に、きっと漫画家になると約束した。
　それは逆に言えば、「約束」という借りを返したかっただけなのかもしれない。
　と言うか、「お前ならなれる」と言った慧彗さんに、認められたかっただけなのかもしれない。
　慧彗さんという憧れの人、もっと言うと僕をバカにしてたアイツを、驚かせたかっただけなのかもしれない。
　目にもの見せてやろう、という、ただそれだけの気持ちだったのかもしれない。

　それがいつしか「不安」となり、「努力」となり、
　そして僕の身体をメチャクチャに乱してしまった。

　約束からは何も生まれないのかもしれない。

　そもそもなぜ人は、頑張る必要があるのだろうか。
　もちろん生きるためだが、なぜ生きる必要があるのだろうか。
　僕の場合はその「生きる理由」が、慧彗さんとの約束だった。
　そして「男になること」。男になれば、あるがままの自分で、何も隠さずに楽しく生きていけるだろうと思ってた。
　いわゆる「夢」だ。
　だけどその夢は、けっきょく、必要なものなんだろうか。
　しかも、叶うものなんだろうか？

　絶望の中、僕は他人に助けを求めるようになる。
　人との繋がりが欲しくなる。
　だけど、それもことごとく失敗した。
　僕の「重い」メールに、冷たく働き盛りの彼らは見向きもしなかった。
　そして僕はますます孤独感と、怒りに苛まれていった。
　大学選びに失敗したこと、発達障害であることも、メールが返ってこない原因に含まれる。

　そして僕はそこで初めて知るのだ。
　自分の信じていた自分は、まったくの嘘っぱちだったと。
　自分の見ていた「漫画家」の自分は、どこにも存在しない、空想の人物なのだと。

　僕はあまりにも現実を見ていないのだと。

　それを裏付ける出来事がたくさん続いた。

　同い年の人のすごく上手い絵を見たり。

　下手と言われたり。

　返事が返ってこなかったり。

　渾身の出来の作品がどの賞にも引っかからなかったり。

　そして、発達障害だと言われたり。

　男になれなかったこと。
　発達障害だったこと。
　現実を見ていなかったこと。
　自分の考えていた自分は幻想だったこと。
　決して、叶わない夢だったということ。

　そして、気付いた。

　自分はただ、慧彗さんに言われて、描いているだけなんじゃないか、と。

　死ぬのだけは、できなかった。
　それは、やはり「憎しみ」が、僕を踏みとどまらせていた。
　「どうして、僕だけが、こんなに悲しまなくちゃならないんだ」と、世の中を、憎みに憎んで、絶対に死ぬものかと思った。せめて、悔いなく生きてから死なせてくれ、と神につばを吐きながら懇願する日々を送っていた。目まいと動悸、心臓の痛みで、生活はメチャクチャだった。

　僕は今も生きている。
　そして、夜、一度も起きることなく朝を迎えることもできるようになった。
　心臓の痛みもなくなった。
　来るたびに子宮の存在を恨んだ生理痛も、随分軽くなった。
　パニック発作と神経症だけはまだ根強く残っているが、いつか良くなるかもしれない。

　ああ、そうか。
　僕はただ、悔いなく生きたいだけなのか。

　だから死ぬのは、もう少し後にしよう。
　生きていれば、人の目に触れるのは当たり前。
　何かを犠牲にするのは当たり前。
　油断すれば、死んでしまうのも当たり前。

　だからぼくは生きる。
　ぼくが人を恨んだように、人から恨まれることもあるかも知れないが。
　それでも、悔いなく生きたいと思う。

　だけどそれも、けっきょく、「憎しみ」でしかないのかもしれない。
　まだ、子供の頃の負債を返し終わっていないから、そう感じるのだろう。

　人は本来、どう生きるべきかは、僕にはまだ分からない。
　平和にみんなで馴れ合いながら、退化して、いずれ地球の、宇宙の塵となるべきなのか。
　それとも・・・宇宙を支配するくらいの気持ちで、繁栄する気でいるべきなのか。

　もう少し生きれば、分かるかもしれない。

　分かるために、僕は今日も、面白くもない漫画を描く。