こうやって読むとよっぽど我が強いと言うか頑なって言うかやっぱどうかしてるよな
まぁ、もちろんあきらめたくないとかせっかくしちゃったんだから努力が報われたいとか認められたいとかつーのもあんだけど、
どこまで行けるか挑戦したいっていう純粋な向上心もまぁ、あるわなそりゃ。
まず僕は、発達障害が「ある」。
それは間違いない、事実だ。
人よりも忘れっぽいし、物事を構造的に考えるし、感情に疎いし、こだわりが強いし、人の感情に鈍い。ADHDとASDの傾向は間違いなくある、それは事実だ。
いじめられる必要がないのにいじめられた
僕のIQはほぼ平均、100だと思う。「思う」というのは、何度も計ったわけではないし、結果が正確かどうか疑わしいと感じているからだ。ただ、その結果としても、平均すれば「100」だ(ちなみに、一番低いので80、一番高いので120である)。町を歩いたり、電車での会話を聞いた感じでも、やはり僕の頭の良さは丁度平均くらいであると思う。高3時代に死ぬほど必死に勉強してやっと偏差値60の大学に合格したということからも、そのくらい、又は平均より少し低い程度だろうと思う。
つまり僕はこれといってバカというほどではない。確かにADHDから来るアホっぽさはあるが、そこまでではない。時々、友達と喧嘩したことを次の日に忘れて挨拶しちゃったり、教室での飲食禁止だということを忘れて先生にお菓子を勧めて叱られたりする程度だ。
だが、周りの偏差値が一般より高いというのなら話は別である。
僕の通っていたとある国立大学附属小学校の偏差値は70だった。クソが付くほどみんな頭がいい。時々、テレビが取材したりしている。卒業生の半数は東大に進学するという、完全なる進学小学校だったのだ。ちなみに入れさせたのは父らしい。そして僕はまだ子供で、それ以外の世界を知らない。つまり、それが世界の基準だと、つい最近までずっと思っていたのだ。これが結局「スキゾタイパルパーソナリティ障害」の原因の根幹であると僕は考えている。
塾にも行かず、予習復習も特にしない(小学生なんだから当たり前)僕は、周りからバカだ、バカだといじめられた。実際、テストの点数は「4点」とかだし、先生にはこっぴどく叱られるし、周りにも全く期待されなくて、ほぼグレ状態だった。自分は「落ちこぼれ」で、「社会不適合者」なのだとすっかり思っていた。僕が一番グレにグレ切っていた時代である。しょっちゅう家出をしたり、家に帰らなかったりした。ま、小学生だからその程度だが。
いじめに対して教師は淡白だった。「自分たちの喧嘩は自分たちで解決しなさい」という感じである。喧嘩ではなくいじめなのだが、「お互い試験に突破している同士でそこまで差があるはずがない」ということなのだろう。実際は試験では分からない差というものはあるものなのだが。気の弱さとかは、分からないからね。同じ附属高校では、いじめでの自殺が話題になった、あの学校です。そういうわけで、まったく取り合ってもらえなかったのもまた、今思えば僕の心を閉ざす原因だっただろうと思う。
彼らはとにかく、親がとても厳しいので、いつも上位にいることに気を遣っている。それは勉強だけではない。どんなことだってそうだ。芸能も、なんでも、優れることが大切なのである。その理由は人それぞれだが、たいていはそうでないと親に認めてもらえないのだろう。知らんけど。彼らにとってもまた、世界の常識のレベルは高いのかもしれない。
男にならないとダメだ
そんなわけだから、とにかくみんな、いじめる。何かにつけていじめてくるので、僕はとにかくいじめられないようにするので必死だった。例えば「頭の悪さ」は、もう、隠しようがないので、バカだと言うことで開き直り、へりくだり、新人のお笑い芸人のような感じの生き方をしていた(いや、知らないけど)。言葉がうまく出てこないという学習障害の症状を隠すために、極力難しい言葉を使わないで、いつも仰々しい振る舞いをするようにした。ちびまる子の山田にも似ている。
唯一変えられないのは「性別」だった。どうしても、女は男に劣る。女はヒステリーで、バカで、頭が悪くて、地位が低いという印象はある。今の時代もそうなのかは分からないが、少なくとも僕の時代にはあった。「これだから女は」という台詞は、「これだから男は」とは言わない。言うとしたらそれは冗談である。しかし、「これだから女は」の場合、それは本気の侮蔑である。父も母に、しょっちゅうこう言っていた。
「これだから女は」と言われないためには、「男」になるしかない。
そして僕は、発達障害も何もかも「女」のせいにして、「男」になればいじめられないのでは、と思うようになったのだ。
動物園に入園した
「お子さんはうちの中学では付いていけないでしょう」と母がやんわり入学を拒否された上、精神からくる嚥下困難症(自律神経失調症のひとつだと思う)を発病したため、これ以上いじめられないように気を遣うのは無理と判断した僕は、公立中学へ進学する決意をした。しかし母が「公立より私立のほうが良いのでは」と思い、丁度祖母が死去し遺産が入ったため普通科に変わったばかりの元工業中学に入学することにした。実際、入学した私立の中学校には理解してくれる先生が何人もいた。「キミは将来、大成功するか大失敗するかどっちかだね」と、叱ってるのか褒められてるのか分からない評価のされ方をしたりもした。完全にグレていたため、僕の偏差値は30満たなかったんじゃないかな。とにかく行ける私立というのが限られていたので、偏差値30の私立に入学した。
入学した第一印象は、「動物園に来た」である。子供は奇声を発し、何を言っているのか分からない。「勉強しないと、こいつらと同じになる」と、ここで謎のプライドがムクムクと目覚めた。これが僕の「人格障害」の始まりである。そこから僕は、人が変わったように勉強した。授業のレベルもガクッと下がり、僕でも分かる内容になった。僕は良い先生と出会い、みるみる勉強ができるようになった。たまに小学校の比較的僕をいじめてこなかった優しい友達に会うと、彼らは僕がまったく分からないようなことを勉強している。学年で一位になっても、ぜんぜん届かなくて、彼らのようになりたい、ならないと、食べていけないと思った。小学校で勉強しなさすぎた焦りや、発達障害でサラリーマンになれない焦り、そして「みんなに認めてほしい」という一心で勉強した。僕の「頭の良さ」の物差しは、まだあの小学校が平均だったのである。つまり、「普通になりたい」という思いが強かったのだ。
この世間知らずさは、今思えば読書をしていれば少しは軽減したのかもしれない。しかしLDがあり、「文字」を理解するのが苦手なうえ、斜視があった。またADHDのため読書は大嫌いであった。読んで読めないことはないが、ほとんど読まなかった。誰かに読めと強要されることもなかった。そうすれば、「あの小学校のやつらのほうが特殊だったんだよ」と思うこともできたのだろうが、小学校の頃の「人間らしい会話」が忘れられなかったし、小学校の頃のほうが何倍もクラスメートが面白く、楽しかった。(そりゃあ、頭がいい人の話は、面白いに決まってる。)父も偏差値の高い人間であるため、やはり物差しはそう簡単には変わらなかった。とにかく、「普通」の大学に合格するまでは、足を滑らせて溺れているから、はやく岸に上がりたい、という意識しかなかった。
人格障害から来る性格の悪さ
そんな僕を、「友達」とみなしてくれる人などまずいる訳がない。「ドS」とか呼ばれながら、なんかお高くとまってるヤツと思われていたに違いない。本当は発達障害で、忘れっぽいし、気も弱いし、頭の悪い遊びが大好きな、「普通」の子供なのだが、発達障害であることを隠すこと、一度染みついた「どうせいじめられる」という思い、疑い、そして「平均」の物差しは払拭できていなかったし、そういうものは努めて隠していたからきっと周りの人は僕のことを、「プライドの高い不愛想なガリ勉」だと思っていたのだろう。しかも出来心で生徒会長をやってしまったら、先生たちの計らいで優秀生徒賞など貰ってしまった。国語の点数は赤点ギリギリだと言うのに!
僕の心の中はいつも溺れていて、怖くて、いじめられる恐怖と、あの時代への憧れしかなかった。だから、みんなの認める大学に入って、実家を離れて、性転換して、ぜんぶ武装し直して、またみんなに会って、認めてもらって、また遊んでもらうんだ、という目標だけで頑張った。発達障害がどうだの、こうだのというのは、てんで意識になかったのだ。僕ならできる、やってやれないことはないと、日々勉強ばかりしていた。その一方で、自分が発達障害で(※まだ発達障害という言葉は知らないが、いわゆる「バカ」で)本心より常識を優先して遂行する「サラリーマン」になれるとは全く思えなかったので、漫画家になろうと思っていた。だから、漫画の勉強もした。
ふたたび溺れる
結局これが悲劇の始まりだったのだが、結局、第一志望に合格した。晴れて一人暮らしを始め、「二十歳になれば親の同意なしで性転換できる」と聞いていた僕は(ちなみに父は別に無関心だったが、母が当然「そんなの親にとって一番悲しい事よ」とか怒ったので二度との話はできないと思った。書いていないが僕の母はかなり我が強いヒステリーで、アスペルガーの傾向があり、一度言い出したら絶対に変えない。それは父も同じであり、二人はアスペルガー夫婦だと僕は思っている。父は昭和19年生まれ、母は昭和27年生まれで、考えが古いというのはある)、二十歳までじっと待ち、二十歳の誕生日を超えると同時に、性同一性障害専門外来を受診した。昼食を抜いてコツコツお小遣いを貯めた預金通帳を片手に握りしめながら。その額、60万円である。今思えば60万で性転換は出来ないのだが、うーん、健気だな。
そして、「発達障害の可能性があるから親と来なさい」と言われた。
この頃になると僕の人格障害はかなり強くなっており、人と目を合わせるのは恐怖になっていた。つまり、「みんなのようになりたい」という思いと、できない自分の矛盾を直視できず、他人の目を見ることすら怖くなっていたのだろうか?(よく覚えてない)単に斜視が強くなっていたからというのもある。それから、「僕は発達障害なんだ」と、絶望する人生が始まった。よく考えればその時点で「障害者なんだから、生活保護受けりゃいいや、ラッキー」ないし「障害者採用ならば何とか就職できるんじゃないないか?」と思えばよかったのだが、そう簡単に思考は変えられない。みんなのようになれないという絶望、努力は全部無駄だったという悔しさで、頭は一杯だった。大学に合格して、岸に登れたとホッとしたのはほんの2年ほどで、再び「僕は社会不適合者だ」と溺れる人生が始まったのだ。
誰も助けてくれない
発達障害だから、性転換もできないし、女のまま大学に通うなんて、とても怖くてできなかった。親に相談するわけにもいかず、自制のためにネットも繋げていなくて、とにかくとりあえず漫画家になるしかないという焦りで食事を疎かにして睡眠時間を削って勉強したのもあり、僕の不安感、孤独感は最大になったのだろう。ある日パニック発作を発病し、不登校になっているのは親の知る所にもなり、そのまま退学させられ今に至るといった感じである。高校時代のクラスメートには、本当の自分をさらけ出していないので、発達障害だと言ってもまったく信じてもらえず、誤解が誤解を呼び逆に面白いことになってきている。
そのまま地元へ戻り、地元の発達障害の病院を受診したらば、今度は「発達障害と言うより性同一性障害」と言われることとなった。精神科医という職業の人間に対して殺意を抱いたのは言うまでもない。そう言われてももう、性転換なぞしたら、母親にモロバレではないか。そしたら毎日、食卓で言葉責めに遭い続けながら食事をせねばならない。また、就職するなりなんなりして、家を出られるのはいつになるのやら。
結局人格障害って、「報われたい病」なんだなって
パニック障害を発病してから7年。一度、清掃のバイトを始めたが、副腎疲労か自律神経か分からないが、とにかく体がまともに持ち上がらない。一日だけは頑張ったけど、翌日腕も上がらないというので、バイトを休む羽目になり、怒られる前に辞めた。ありがたいことに、最近では発作はほぼ起こらなくなってきた。二、三カ月に一度、生理一日目に、起こるか起こらないか程度である。疲労が溜まった場合は、この限りではない。ここまで治ったのもつい最近のことだ。不眠や副腎疲労は、まだしつこく残っている。さてではこれからどうする? あんまり自己卑下する必要はない。大阪の精神科医は僕を重度の発達障害だと誤診したに過ぎないのだから。失調型人格障害?
だからと言って、別に無理に人を信じる努力をする必要はない。また努力して、漫画家でも社長でも何でもなればいいのだから(ただもうむやみに、人を疑っていることを向上心のない一般人にバラす必要はないなと思っているだけだ)。性同一性障害ではないけど、男になりたい?
それは変わらない。別に良いではないか、それで自分の心が安心するのなら。しなきゃいけないこと、することは、高校の頃と変わらない。性転換して、社長だか漫画家だか、そんな、一人でできる仕事をすればいいだけのこと。お金が無くなれば、漫画家になれるまで、又は一人でできるバイトができるようになるまで、生活保護を受ければいいだけのこと。少し、泳ぐのにも慣れてきた。ずっと溺れたままはいやだけど、まだ岸に辿り着けるわけじゃない。これからも頑張って泳ぐつもりだし、あきらめるつもりはないぞ。
だってそうでなきゃ、苦労が報われないじゃないか。
お寿司を送る